『本格小説』上・下 水村美苗 著 新潮社


水村美苗は、この物語を書くべくしてそれを天から授かったということを、強く感じさせる物語である。前編に撒き散らされたかけらたちは、後編に進むごとにひとつずつ寄り合わされ、そして人生の永い時の流れ深みに読者を引き込んでいくような作品だ。
読んだあと読者は、フミコの人生を生きてしまった感覚をどこかでおぼえてしまうだろう。
まさに、軽井沢と追分、千歳船橋と成城を四十年もの間、行きつ戻りつさせられた気分になる。


天職としての小説家についての冒頭のくだりは水村美苗自身への問いかけであり、またひとつの確信でもある。いくつもの謎解きがされていき、絡み合った時間がほぐれて遠い過去に流されていくなかで、いちばん最後にかっちりとこの枕の部分へ戻ってくる。そして、彼女がこの物語を仕上げるのである。

水村美苗自身、この物語に人生を取り込まれており、日本と米国との境で生きている人間であるから、これは彼女の筆をもってしてのみ世に生み出せるものであっただろう。流れるような日本語はとろりとして濃く、饐えたような空気が匂い立つ文章の中で、東太郎の絶望的な孤独と強烈な引力から逃れられなくなる。東太郎という人物を形作ってしまった時間の流れ。運命の、いくつもの必然ともいえるめぐりあわせ。追分の山荘にこもった、時をとめてしまったような空気があふれ出てくる。読者は、ひたすら時間を忘れて頁を繰る。

「あたしが死んでも、殺したいって思い続けてちょうだい」

「僕が死んだって、君を殺したい」

見たことがあるはずもない東太郎のまなざしが、脳裏に焼きついて離れそうにない。繰り返し、襲ってくる映像には、四十年のときを経てしまったひとたちの、深い哀しさに満ちている。すでに、この人生を生きてしまった人たちの。

東太郎はこんなにも激しく、哀しく、孤独と憎しみに満ちているのに、読者はその強烈な引力とセクシーさに魅かれていく。強烈な気配に、身震いする。

これは、夜通し読み聴かせてもらう、明け方の物語である。

そして読者はまた、誰かに読み聴かせなくてはならない、かもしれない。

18 Mar 2004


Photo by africanwhale





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