わたしの出生には、ある一族の歴史から完全に抹消されるに足るべき事情があったようである。 わたしにはこの地球にひとりの親戚もいない。長々と述べられる先祖の系譜や、遺伝のつながりや、親譲りの性格を受け継いだという感覚、ある種の感情的な不安定さ、あるいは祖母やら曾祖母から受け継いだ爪の形などというものがない。 わたしはいつも、わたし自身だけの存在だった。わたし以外、何にもつながることのない。 わたしは1937年7月6日、ピーターマリッツブルグの精神病院に生まれた。 彼が、彼らの競走馬の世話をする馬屋番だったということ以外、父親に関する情報はない。 母親に関することは、13歳のときにたくさん聞かされた。 生まれたとき、わたしはカラードの養母に預けられた。わたしが心理的にも母親と認め、深く愛してきたひとである。わたしの養育費として、彼女は月に3ポンドを受け取っていたという。 わたしの人生はわたしの知らないところで密かに監視されていた。毎月毎月ソーシャルワーカーがやってきては、ノートにわたしの毎日のことをメモしていたのである。 13歳になったときわたしの養母は経済的な困窮に陥り、わたしのダーバンのミッション系孤児院行きが決まった。 問題は、学校の休暇がきたときに起きた。 英国の宣教師である校長は、わたしをオフィスに呼び出すと冷たく言い放ったのである。 「あなたは、あの女性のところには帰れませんよ。彼女はあなたの母親ではないのです。」 校庭の茂みのしたで地面にひれ伏し打ちのめされているわたしをある教師が見つけ、どうしたのかと尋ねた。わたしは、誰もわたしを母親のところに帰してくれないから死んでしまいたい、と答えた。 それから、どういうわけか校長はわたしを車へ押し込むとダーバンの司法機関まで飛ばし、そこで行政官が早口で何かわたしにはわけのわからないものを読み上げたのである。理解することどころか、聞くこともできなかった。彼はわたしを非難するような、まるでわたしが犯罪者か何かのような目で見て、冷淡に言った。 「君の母親は白人だったのだ。聞いているのか。」 孤児院に帰ると、宣教師の校長は大きなファイルを開き、恐ろしく冷たい表情で言った。 「あなたの母親は、狂人でした。あなたも気をつけないと、母親のように気が狂ってしまいますよ。 彼女はその台詞のぞっとするような残酷さに、まったく持って気づいていなかったように見えた。 このことは同時に、宣教師女史にとって愉快なことでもあった。何かわたしに問題があるたびに、ファイルを広げてちょっと読み上げればいいのだから。だから、わたしは自分の出生の漠然とした印象を得ていた。わたしの母親が精神病院で書いた、その涙をさようような手紙。わたしの教育は彼女の何にも変えがたい望みで、彼女の遺産の一部はそのためにとっておきたいということ。彼女の人生のなかでもっとも情緒不安定で落胆している時期で、彼女は自分の身に降りかかる悲劇に苦しまねばならなかった。 彼女は結婚していたが、結婚が失敗すると家族の元へ帰った。 突然でまったく予期もせぬような流れで、彼女はひとりの黒人男性に愛と温かさを求めたのである。しかし、家族は南ア社会では上流階級に位置する競走馬の馬主であった。 家族の邸宅はヨハネスブルグにあったが、家名を守るため遠くへ逃げなければならなかった。 こういうすべてのことに、伝記作家がひとりでも涙を流すことに飽きてしまうことを、わたしは恐れている。わたしには、世間に隠すべき秘密も世間体も何もない。本当にセンセーショナルなことやスキャンダルなども、わたしの人生には含まれない。自分の人生を人格として見返してみると、それはまったく平易で平凡。刺激的なこともミステリアスなことも、何にもないのである。 (あふりかくじら訳) |