(2003年11月南部アフリカ研究会ネットワークノート投稿記事)
 南アフリカ共和国の作家J.M.クッツェー氏がノーベル文学賞を受賞した。とくに熱心な読書家ではない私はクッツェー氏の作品を読んだことがなかったため、これを機会にと、近所の図書館で一冊を手にとった。

 南アフリカ出身の作家ベッシー・ヘッドの研究はするが、私は文学研究というものをしているわけではないため、その手の話には実に疎い。そもそも、小説は心ひかれたものを好き勝手に読み漁るようにしているだけなので、文学の流れを体系だて、作家や作品だとかその系統だとか、古典と比較するだとかいうことは自分には無理であり、むしろ好まない。個人的な意見を述べると、常に一つ一つの作品とそれが自分に訴えた感動について述べることによってこそ、小説は読者の中で生かされるのではないかと(内心)思っている。読書というのは非常に個人的なものだからだ。


 以下に、私自身に訴えかけてきた作品二篇とクッツェー氏の作品について述べさせていただくことにする。わたしは、以下の各作家の他の作品を読み込んでいるわけではないため、あくまでもその作品自体への雑感として書かせていただくことをご了承願いたい。

 『恥辱』J.M.クッツェー著 鴻巣友季子 訳 早川書房 2000 お求めはこちら



南アフリカ共和国はケープタウンの大学教授デヴィッド・ラウリーの「審判」と「恥辱」の物語である。非常に完成度の高い小説だ。クッツェー氏は、この作品で二度目のブッカー賞に輝いたという。

ところどころに薫り高き文学作品の有名な一節などがちりばめられ、しかし文章はいたって簡潔で、物語は淡々と進められていく。読者はそのリズムを狂わさないように十分注意しながら、そしてデヴィッド・ラウリー教授の魂の流れから目が離せない。

52歳のラウリー教授は二度離婚をしている。ケープタウン大学で文学を教えながらも、教職に情熱はない。週に一度、エスコートクラブで娼婦を買う。あるとき教え子と関係を持ってから、彼は転落していく。告発され、教職を辞任し、東ケープの田舎で農場を経営する娘のもとへと転がり込む。そして思わぬ衝撃的な事件が彼を「恥辱」へと導く。

ポスト・アパルトヘイトの南アフリカ社会は、あらゆる人間関係と力関係を根底から覆す。その社会的価値観の揺らぎの中で転落していく人間の様相。強盗、レイプ、人種問題、失業と貧困、諸問題渦巻く社会を、ラウリー教授の人生を通して象徴的に描いた作品である。 作品自体は非常にすっきりとしていて無駄がない。読み終わると頭の中できちんとしたある程度の質量をもってまとまっていく感覚をおぼえた。

たとえばクッツェー氏は、実在する市民政治的な出来事や政党などを扱って物語を描くわけでもなく、かといってベッシー・ヘッドのように農村をモチーフとして間接的に政治性のある物語を描くでもない。ある人物と周囲の力関係、そして魂の裁きの物語を、アパルトヘイト後の南アフリカ社会の中に実にしっくりと馴染ませてくる。アパルトヘイト後の社会における白人の立場、その失墜とも言えるべきものについて、厳しく冷静に描き出してくる。その筆致の巧妙さは、やはりノーベル賞作家だ。ひとりの人間の魂の問題を通して社会の価値変遷を描く。その後始末は、読者にやってもらおう、という意図があるような気がする点、一種のずるさを感じる。もっとも、小説は最後に読者が作るものだとは、私も思うのだが。

『恥辱』は、かなりたくさんの詩や文学作品からの引用が非常に完成度を高めている作品である。しかしそれは、「小説」としての完成度の高さであるのかもしれない。そういった意味では、アパルトヘイト後の南アフリカを批判的に描き出すような、あからさまな社会性はあまり見て取れないように感じてしまう。私の中では嵐のような感動を引き起こす作品ではなかったかもしれない。しかし、鴻巣氏のあふれるような語彙と文章のクオリティの高さには感動した。

『母から母へ』シンディウェ・マゴナ著 峯 陽一/コザ・アリーン訳 現代企画室2002
お求めはこちら

「私の息子が、あなたの娘さんを殺しました。」

エイミー・ビールが殺されたのは、1993年8月25日のことだという。南アフリカ共和国のケープタウンのタウンシップで黒人青年四人に取り囲まれて、殺害された。

昨年、峯陽一氏の邦訳版が出版されたシンディウェ・マゴナの小説『母から母へ』は、そのエイミー・ビール事件を題材に描かれている。1993年、スタンフォード大学を卒業してフルブライト留学生として南アフリカにわたったアメリカ人のエイミー・ビールは、翌年の南アフリカ史上初の全人種参加総選挙を控えたケープタウンで、その準備を手伝っていたという。ケープタウン郊外のタウンシップ・ググレトゥに足を踏み入れた彼女は、アパルトヘイトを憎み、ともに闘い分かち合おうとしていたその人々の手によって殺されてしまう。ググレトゥを故郷とするシンディウェ・マゴナは、この実際の事件をもとに、殺人者の母親を語り手にして被害者の母親へ宛てた「ものがたり」を描いている。

 殺人者の母親の語り。彼女がどのような国に生れ落ち、どのような環境で何を思いながら育ったか。彼女の両親、家族、そして政府による強制移住のこと。そして彼女の息子はどのようにして生まれ、どのようにして、その人種が抱えるあまりにも重い宿命的なものを、その手に握ることになったのか。シンディウェ・マゴナは、まさにその母親と自らの人生をかぶせ、自分の国の歴史を問うている。

これは、殺人者と被害者のものがたりではなく、黒人と白人のものがたりでもない。青年たちの絶望的に深い怨みと怒り、そしてそれを生み出した南アフリカの歴史が語る多くの物事には、複雑に絡まりあった怨念の構図がある。白人が黒人を差別し、貧困や政治の抑圧に押しつぶされる黒人たちによる抗争だとか、白人がANC(アフリカ民族会議)の反アパルトヘイト闘争に共感しているだとか、3-2=1であるというような図式は存在し得ない。それらはかき乱され、オーバーラップし、意味が逆転し、人間を心の底からわきあがる悪の泉へと突き落とす複雑難解な構造である。悪が悪を呼び覚まし、罪が上塗りされていく。この国は、そういう歴史を抱えていると思う。

 エイミー・ビールは恐れを抱いていなかった、とマゴナは小説中で殺人者の母親の声を借りて語る。自分が心を砕き、ともに歩もうとしている者たちのことを、彼女は恐れていなかったという。南アフリカで白人であるということは、南アフリカで黒人であるということと同じくらいに複雑で重たい。アマンドラ(権力)の叫び声とともに反アパルトヘイト運動を指揮した指導者は、このような若者に対して怒りのままに暴走することを意図したわけではない。だがしかし、アパルトヘイトの悪を打破するための掛け声は、そこに生まれるべきだった理性も何もなく、エイミー・ビールのような哀しい運命をたどる人間を、暴徒となって罪を重ねる若者を、何人生み出したことだろう。

マゴナが作中で語るのは、もっと本質的なことだ。アパルトヘイトという「悪」、組織的な「悪」は人間の心の底から湧いてくる。ひどく、本質的で個人的な領域の話だ。作家ベッシー・ヘッドが語ろうとしている悪そのものの形なのである。

この世界はひずみを抱えている。無数の小さなひずみだ。世界はそれらをすべて抱え込んで大きくうねり、流れながら生きている。巨大な悪はうねりの中で育まれ、無差別に、罪のない自尊心たちに向けて放出される。その営みは残酷で、しかし終わることなく繰り返されるのだ。残酷で、あまりに唐突に、たくさんの小さなひずみたちに向けて。

エイミー・ビールの両親は、TRC(真実和解委員会)でこの四人の青年たちの免責を承認したという。エイミー・ビール基金が設立され、彼女の遺志を継いでアパルトヘイト後の南アフリカのために多くの人々が活動している。

また、エイミー・ビール事件は、ハリウッド映画化されるという。エイミー役を女優のリース・ウィザースプーンが演じるとのこと。リースはエイミーと同じスタンフォード大学出身で、事件のこともよく知っていたという。「ハリウッド」映画になるとのことで、いったいどんなものが飛び出すかは不安である。「殺人者」の母親マンディサ役が気になるところだ。

殺されたときのエイミー・ビール、そしてエイミー役を演じるリース・ウィザースプーン、それから南アフリカの出国許可証を持ち二度と帰国を許されないままボツワナに亡命したときのベッシー・ヘッド。この三人と、ここ日本で『母から母へ』に衝撃を受け、スクリーンのキュートなリースに惚れ込み、ベッシー・ヘッドについて語る現在の自分。すべて同じ年齢だということに、これを書きながら気づいた。(リースや私の生まれた1976年はソウェト蜂起の年だった)余談だが。

 『ゼンゼレへの手紙』ノジポ・マライレ著 三浦彊子 訳 翔泳社 1998 
お求めはこちら

 一種の聖書のような本だと思った。ジンバブエに暮らす母親がハーバード大学に留学している娘に宛てた手紙を、ひとつの小説としている。母親の語りは、彼女の生きてきた道、家族の生きてきた道、ローデシアからジンバブエへの変遷、人種主義・植民地からの解放闘争、そして独立後のアフリカ社会へと、伝えたい思いがするりとつながっていく。私はこの本をエディンバラ大学へ進学する際にかばんに入れていったくらい、アマイ・ゼンゼレ(ゼンゼレの母さん)が語る人生のことばとアフリカの魂は、私の生き方にとっても大切なものとなった。

 『母から母へ』も『ゼンゼレへの手紙』も、ともに最初から最後まで母親が独り語りする形式をとっていて、そしてひとりの女性の人生のみならず、その世界はアフリカの抱えた運命と歴史の重みなどを交えて、果てしなく広く深くなっていく。

闘争の時代を生きたアマイ・ゼンゼレが描くジンバブエには、様々な人生模様があり、人生哲学がある。地に落ちていく者たちもいれば、血を流して独立のために闘う者もいる。国を捨て、去っていく者もいれば、西欧的な価値に傾倒して自分を見失ってしまう者もいる。とくに、フリーダム・ファイターたちがブッシュで闘う様子、そして人種主義者の描き方などは、ひとつひとつが実に大きなテーマを提示している。そしてそれ以上に、この作品はまさに人生の示唆に満ちた言葉たちでいっぱいなのである。

 ゼンゼレは、若く賢い娘で好奇心にあふれ、解放闘争で活躍した父を持ち、穏やかな母親のことばは、驚くべき鋭さと正しい重さ・率直さをもって語られる。私はどちらかというとゼンゼレよりで、自分の子どものころを思い出しながら、彼女のことばに聴き入った。強く生きて、という彼女のことばは、混沌とした時代を生き抜いた女としての人生と、アフリカに生きる人間としての精神の崇高さと誇り高さを思わせる。そのことが何故か、アフリカを想い人生のコマを進めてきた自分自身の、その先にある非常に個人的な未来に助言をし、アフリカへのさらなる想いを募らせるような、またある種の確信を持たせるような役割を担った。



Back